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本郷通り吉祥寺(八百屋お七の比翼塚) |
| 本郷追分けから六義園の近くを通る不忍通りまでは旧跡や由緒のある寺社がたくさんある。御成道(本郷通り)を北(駒込方面)に順に歩く。
本郷追分け〜王子稲荷ルートマップ
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1.(天栄寺)土物店跡
土物店(つちものだな)跡までは追分けの高崎屋側を約1キロ15分。駒本小学校交差点の交番の角、南北線「本駒込」駅一番出口を出て北に30秒の所にある。
元和年間(1615年頃)から昭和12(1937)年までこの地に青果市場があった。神田、千住とならぶ江戸の三大市場のひとつで三町にまたがる大きな市場であった。
| 市場の興りは、駒込など北から野菜を担いで江戸に行く農民がこの地にあった大木の下で休むことが通例となったことから自然に市が発生した。最初は駒込のやっちゃばといわれた。大根・にんじん・ごぼうなど根菜を土のついたまま取引したことから土物店といった。
道路の拡幅にともない、市場は昭和12年に豊島に移転して豊島青果市場となる。天栄寺の門前に石碑が残っている。
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2.(南谷寺)目赤不動
土物屋跡の通り沿いに北に1分で目赤不動に着く。
| 元和年間(1615〜24)万行(まんこう)和尚が伊勢の国赤目山で不動明王像を授かり、駒込の動坂に庵を設け「赤目不動」と称した。
寛永年間(1624〜44)三代将軍家光は鷹狩りの途中に動坂の庵に立ち寄り、寺地を本駒込に与え、赤目不動を目黒・目白に準じて目赤と名付けよと命じる。それで現在地に移転し「目赤不動」と名乗った。
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目赤、目白、目黒、目青(世田谷教学院)、目黄(台東区永久寺)を江戸の五色不動という。(目黒・目白は不動尊の名で、目赤・黄・青まであるなんて知っていました?)
3.吉祥寺 お七・吉三の比翼塚
目赤不動の先の交差点で右側に渡りほどなく吉祥寺に到着。
太田道灌が江戸築城のとき井戸を掘ったところ「吉祥増上」の刻印が出たので和田倉門に「吉祥庵」を設けたのがはじまり。
家康の関東入国の際に庵を水道橋に移したが明暦の大火で焼失し、現在の位置に移る。中央線の吉祥寺はこの吉祥寺の門前の農民が新田を開いたことから名付けたという。
| 吉祥寺は曹洞宗の修業所となり、その広い境内に学舎・寮舎を設け、常時千人の学僧がいた。教科は内典(仏教)と外典(漢学)にわかれ、やがて漢学が強化され武士が聴講するようになった。
二宮尊徳、榎本武揚、鳥井耀蔵(幕末の目付)の墓所がある。
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八百屋お七の比翼塚
| 本郷追分けの八百屋八兵衛の青果の大店は、天和2(1682)年の大火で焼け落ちて、一家は吉祥寺に避難した。この時一緒に避難した八兵衛の一人娘が「お七」である。
お七は避難中に寺小姓の美少年吉三と知り合い恋仲になるが、母親に引き離される。
実家が再建され家に戻ると家人に監視され、吉三と逢うことは叶わなかった。お七の想いはつのり、火事で混乱すればまた吉三に会えると錯乱し、お七は放火をしてしまう。そして捕らわれて火あぶりの刑に処せられた。お七は寛文7(1667)年生まれ天和3(1683)年没。17年の生涯であった。
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お七の悲恋の物語は井原西鶴の『好色五人女』で取り上げられ江戸のベストセラーとなった。
史実ではお七の一家の避難先は白山の円乗寺で、吉三郎も円乗寺の寺小姓であり、お七の墓も円乗寺にある。吉祥寺の比翼塚は文学愛好者により建立されたものである。(比翼塚とは、相愛の男女や心中した男女を葬った墓のこと)
白山の円乗寺にある「八百屋お七」の墓
井原西鶴の好色五人女では「お七と吉三」の出会いの舞台は吉祥寺であるが、実際にお七一家が避難したのは八百屋八兵衛の檀那寺の円乗寺であった。円乗寺は白山浄心寺坂の下にある江戸三十三観音十一番札所。
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| 円乗寺の入り口にお七の大きな石碑がある |
円乗寺は白山のマンションにはさまれた一角にある |
お七の墓のある円乗寺地図。地下鉄白山駅が近い。 |
| お七の墓は三基ある。中央は寺の住職が建てたもの。右側の墓は寛政年間(1789-1801)に岩井半四郎がお七を演じた縁で建立。左側は近所の人が二百七十回忌法要のために建てた。
戒名は妙栄禅定尼。天和三(1683)年三月二十九日寂(旧暦)。
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| 円乗寺の入り口にある「八百屋お七」地蔵尊。お七が在世のとき一体の地蔵尊を所持していた。それを祀ってあるのがこの「お七」地蔵尊である。
この地蔵の正式名は「南無六道能化八百屋於七地蔵尊」という。
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4.富士神社
吉祥寺側をそのまま駒込駅方面に500メートル・約7分で富士神社入り口交差点がある。ここを右に曲がってすぐに「富士神社」がある。
| 富士神社は本郷の名主が駿河の富士浅間神社を本郷に勧請したことに始まる。
寛永5(1628)年加賀前田家が本郷に上屋敷をもってくるのにあたり、今の本駒込のこの地に移した。もともとこの地には富士塚という古墳があったとされる。この塚を富士山にみたて「登山道」を富士の溶岩で造った。
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富士講は古代からの富士山信仰を背景に江戸時代に成立した民間宗教。享保18(1733)年に食行身禄(じきぎょうみろく)という行者が当時の政治体制を批判し富士山に入定したことをきっかけに、市民の中に爆発的な冨士講ブームがわき起こった。江戸八百八町に八百八講の富士講ができたという川柳もある。
毎年6月朔日の富士山開きの日にあわせ町の代表を登拝させ、留守を預かる市民は、「江戸の富士」に詣でた。江戸の富士はこの本駒込と護国寺の音羽富士、白山神社の白山富士が有名であった。
富士神社を跡に上富士交差点を斜めに渡り六義園に向かう。
(塩原)
【参考資料】
ぶんきょうの史跡めぐり 文京区教育委員会編、円乗寺資料 2004/8/14
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