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本郷追分 |
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| 旧江戸城大手門前 |
大手門 |
日光参詣の将軍の隊列は、江戸城大手門を出ると神田橋を渡り小川町を通り昌平橋から中山道に合流し、中山道を北上し本郷追分けに至る。(ルートは江戸古地図から推測)
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| 本郷追分の位置 |
本郷追分地図 |
本郷追分け〜王子稲荷ルートマップ
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| 1841年の本郷追分 |
2004年の本郷追分け |
本郷追分け左手が中山道。右に真っ直ぐ伸びる道が御成道。
本郷追分と一里塚
中山道と岩槻街道(本郷通り)の分岐点が「本郷追分」。日本橋を起点に始まった中山道はこの本郷追分で一里となり、一里塚が築かれる。本郷の地名は、湯島の内で中心という意味の湯島本郷から生まれ、のちに別名となった。
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| 現在の「一里塚」。日本橋から4キロと記している道標。この写真は東大側の道標で神田方面に向けて撮影したもの。 |
バス停に残る「追分」の地名。実際には「追分」の分岐点より数百メートル駒込よりにある。 |
本郷追分には酒類を扱う大店の高崎屋と、青果の大店八百屋太郎兵衛の店があった。寛文七年に生まれた太郎兵衛の娘が「八百屋お七」である。(関連記事は吉祥寺を参照)
江戸の大店 高崎屋
高崎屋は中山道と日光御成道(岩附街道)が交差するこの本郷追分に店を構え、酒・醤油を商った江戸中期からの老舗。
江戸は新興都市であり、江戸初期には駿河や上方から移り住んだ人々の口に合う味覚が無かった。酒、醤油そして米までも大阪から船で江戸に運ばれた。これを「下り物」とよぶ。地場の食品は味が劣ったことから「下らない」とよばれ二級品以下の扱いをされた。高崎屋も創業からしばらくは伏見や灘の「下り物」を揃えた。
江戸中期になり野田や銚子で質の良い醤油が醸造されたがブランド力が無く売れない。そこで高崎屋は「江戸一」というブランドを付けてこれら地回り品を安く売り出した。今度は飛ぶように売れ、三代で絵図のような資産を築いた。
下の絵図には広大な屋敷、庭など当時の高崎屋の大繁栄ぶりが鮮やかに描かれている。
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| 1841年の本郷追分 長谷川雪旦親子が描いた高崎屋絵図 |
この絵図は、「天保の改革」により華美や贅沢を厳しく取り締まる一環として、幕府から屋敷を大幅に縮小する命令が出たことから、後世に家屋敷のありさまを伝えるために江戸名所図会の絵師で高名な長谷川雪旦親子に依頼して描いたもの。
手前の広い通りが「本郷通り」、左を「中山道」が通る分岐点に広大な屋敷と築山を持つ庭園が描かれている。高崎屋は本郷通りの手前の現東大農学部側にも敷地を持っていたということがこの絵でわかる。
高崎屋はこの絵図の完成後に屋敷を大幅に縮小した。店舗は明治になり建て替えられたが、大震災や戦災を免れ、現在も「店」として使われている。
高崎屋
〒113-0023 東京都文京区向丘1-1-17
TEL.03-3811-0833 FAX.03-3815-5340
URL:http://www.hi-ho.ne.jp/ornellaia/
高崎屋を後に御成道を駒込方向に歩いて吉祥寺に向かう。
(塩原)
※高崎屋絵図のご利用は個人での利用に限り自由とします。
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