左トンボ
会社案内営業案内DTP制作案内DTP情報DTP情報
江戸の印刷文化史 浮世絵と春画の関係

歌舞伎は当時にあっては現代劇であった。古来の伝説・逸話を基にした演題もあったが、多くは市井で起こる様々な事件を戯曲化して上演された。

同じく浮世絵も当時にあっては現代画であった。

長く続いた戦乱の時代がやっと終わりを告げ太平の世となった。それまでの辛いばかりの「憂世」から明るい楽しみに満ちた「浮世」に移り変わった。

そして井原西鶴の浮世草子の江戸版に菱川師宣が挿絵を描いたことから「浮世草子」の絵であり、その後絵が単体で独立したことから「浮世絵」と称されるようになった。

整版印刷術が発達し量産化されることにより庶民が容易に手にすることが出来るようになった(たとえば文化二(1805)年頃小版の役者絵なら二枚で16文(600円)。大判の錦絵は一枚20文(750円)程度で買うことが出来たという)。

一色の墨摺絵から徐々に進化し、やがて多色摺の錦絵が登場すると浮世絵の大ブームが到来する。

浮世絵というとポルノのような春画(しゅんが。江戸時代に流行した性風俗(特に性交場面)を描いた浮世絵の一種。笑い絵や枕絵、枕草紙とも呼ばれる。葛飾北斎や喜多川歌麿らの高名な浮世絵師もこれらを手がけた)を連想する方が多いと思う。

実際に後世に名を残した浮世絵師のことごとくが春画を残した。浮世絵と春画は作者からみたときにまさに一体のものであった。

江戸の書肆は民営の企業であり、経営を継続させるためには世間のニーズに応えなければならない。現代においても一つの書店にお固い岩波文庫もあれば、柔らかいフランス文庫もある。風景の写真集もあればビニールを被ったヌード集もある。

当時に春画を企画する出版社があったことには何の不思議もない。しかし現代の出版社が高名な画家に男女の交接図の制作を依頼するであろうか?

当時も無名・新進の絵師はかなりいたはずである。どうして名の売れた多忙な絵師達にそれを依頼(浮世絵は絵師の名が残っているが、絵師が発表したものが印刷されたのではなく、書肆が企画して絵師に発注し版行した。浮世絵版画のほとんど全ては書肆の主導で版行された)したのだろうか?

その理由は制作のキャパシティだけの問題ではなく、読者・購買層の高い教養水準が作用していたものと考えられる。

江戸後期になると子供が本を読んだり、流行の役者絵を集めたりは普通に行われていた。字が読めない大人は子供達の嘲笑の対象となるまでになっていた。

式亭三馬の「浮世風呂」の一節には、商家の八歳の男の子が、草双紙が出るたびに買い集め、「挿絵の歌川豊国の絵はいい」とか、「歌川国貞もうまい」とか品定めをする下りがある。

江戸中期になるともはや「裸」であれば売れるというものでは無くなったのだろう。版元にとって売れ残りは大いなる恐怖である。当然のこと力量があり、風俗・美人絵等で名声を得ていた絵師達にそれを依頼することになる。

そして一流の絵師達が画質を競い合い、独自の画風を築きあげる中で春画は江戸の出版文化の一翼を担った。

春画はしばしば幕府の風俗取り締まりにより「発禁令」が発せられたが、その多くは有名無実(発禁令が出ると、版元や絵師の名を隠して版行された。販売は行商が主だったので問題はほとんどなかった。店売りでは声がかかると店の奥に案内して販売した。奉行所の役人もみんな春画のファンなので、表だって販売していなければそれで良しとなった。春画から絵師の名が消えてもみんな目が肥えていたのでたいていだれの筆かはわかっていた。絵師もいつもとおんなじように描いた)で元禄から幕末を通して活発に流通した。

やがて市井の浮世絵師だけではなく、江戸城の襖絵や東照宮の壁画を手がけた徳川幕府お抱えの狩野派の画師達までが春画を描いた。

当時フルカラーの大量複製の春画は我が国にしか存在しなかった。西欧人達にとって、濃厚かつ精緻な春画は驚愕するほかにない存在であった。

長崎のオランダ商館を通して春画が、そして浮世絵が大量に欧米に旅立った。春画は好奇を超越した「異国の高度な美術」として高く評価され、今日においても春画展が開催されて盛況をおさめている。

たとえば、ロンドンの美術評論家ジャック・R・ヒラーは、「浮世絵の春画は世界的な美術遺産であり日本が世界に誇るべき美術である。浮世絵版画における春画は浮世絵の核を成す存在である」と語っている。また、フィンランドの首都ヘルシンキ市立美術館で2002年11月20日〜2003年1月26日まで開催された「春画展」には2万人以上の来場者を集めたという。

もちろん春画だけではなく浮世絵自体が欧米で高く評価され、当時の西欧絵画に大きな影響を与えている。幕末期に旅立ったそれら浮世絵の版画・肉筆画は、欧米各地にいきわたり、主要都市の美術館・博物館で常設展示されている。

春画は風景、風俗、役者、美人(町娘・遊女)等からなる浮世絵美術の中のひとつのカテゴリであって、江戸の好色文化の中で昇華を続けた(太平の世が続く時代の中で性に対する開放感が生まれ、浮世草子や好色本とよばれる艶本や、春画等の出版がそれを後押しした。「ばか夫婦、枕絵のまねをして筋ちがい」「ばか夫婦、春画のまねで、手をくじき」といった川柳が残されているが、これは庶民階層に春画が広く普及していたことのひとつの顕れである。また幕府の高官の家庭内の日常会話でも平然と猥談がされていたという記録もある(『江戸の性風俗』氏家幹人著 講談社現代新書より)。当時、櫛などの小間物を売る行商人が武家や町屋に小間物と一緒に張形を売り歩いていた。小間物屋は勝手口で店を広げそこに女房・娘・女中連中が集まって「張形」を手にとって品定めをしたり、後家が張形のコレクションを床の間にズラリと飾って満足している様子等が草子や浮世絵で伝えられている(『張形と江戸をんな』田中優子著 洋泉社刊より))。

しかし明治二(1869)年の太政官布告により「春画」の出版・流通が厳しく取り締まられるようになり、それから日陰の存在となった。

西欧化志向が高まるにつれて春画の美術的価値は否定されるようになり、やがて江戸期の浮世絵全体が社会から否定されるようになった。

蛇足 西洋絵画への影響

17世紀に西洋で流行った眼鏡絵という娯楽の絵画が中国経由で長崎に伝来した。風景や室内画において虚構の空間の奥行きを誇張した透視図法であるこの眼鏡絵は浮世絵師奥村政信が取り入れて、歌舞伎の劇場図、茶屋などの座敷図、上野の野外図などに使われて発展し、江戸後期になると北斎や広重の大胆な構図の風景画となり、俯瞰画法という独特の遠近法が編みだされて西洋に逆輸出された。

歌川(安藤)広重の「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」はゴッホが、北斎の「快晴の富士」はセザンヌに、鈴木春信の「蓮池舟遊び美人」はモネに、手本となり模写され研究された。

特にゴッホは葛飾北斎の本や、江戸時代の浮世絵界最大派閥といわれた歌川派など400点以上に及ぶ浮世絵をコレクションした。ゴッホが描いた「雨中の大橋」と「花咲く梅の木(亀戸梅屋舗)」には「日本文字」までがデザインとして一体で模写されている。

(塩原 2004.10.18初出)

【参考及び引用資料】
◆江戸浮世絵を読む ちくま新書 小林忠
◆春画 浮世絵の魅惑T ベスト新書 福田和彦
◆春画 浮世絵の魅惑U 好色余情の美 ベスト新書 福田和彦
◆早わかり日本史 河合敦著 日本実業出版社刊
◆新しい歴史教科書 市販本 扶桑社刊
◆春画―秘めたる笑いの世界 ヘルシンキ市立美術館/浮世絵春画展 白倉敬彦(編集)、早川聞多(編集) 洋泉社刊

文化情報に戻る 文化情報に戻るお役立ち情報に戻る お役立ち情報に戻る
左トンボ
    Copyright (C) Informe. All Rights Reserved.    
  最下層区切り線  
トップページへ戻る
トンボ01
トンボ02 history11.html トンボ03
2008.1.25
トンボ04