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江戸の印刷文化史 江戸の識字率

西鶴以降も次々とベストセラー本が出た。町民の多くはそれを貸本で読んだ。

洒落本と言われた山東京伝(さんとう・きょうでん)の仕懸文庫、滑稽本といわれた十返舎一九の東海道中膝栗毛、読本の代表作である滝沢馬琴の南総里見八犬伝などが元禄そして化政期に続々と刊行される。

しかしベストセラーは庶民が文字が読めてこそ成立する。今回は江戸時代の高い識字率について調べてみた。

寺子屋の始まり

江戸幕府はキリシタン禁制を徹底するため、天領・諸侯領の区別無くその領民に対して宗門改めを行いその有効な方法として寺請(てらうけ)制度を確立した。これによってすべての住民は「檀家」として「檀那寺」に世襲的に帰属することを強制された。

宗門人別帳には戸主の名・年齢、妻の実家・結婚年月日、子の生年月日等が記されて檀那寺から宗門改役人に提出された。

寺は今の市町村役場の住民課にあたり、戸籍・住民票・諸証明書を管理・発行する。寺の住職は人々の日常生活の根底に関わり、幕府はこの寺請制度を通じて確固とした支配体制を築いた。

寺の住職は仏事とは無縁のこうした庶務を幕府に押しつけれられたが、同時に衣食住の全てから、寺の修復まで檀家に寄付してもらう特権を保証された。同時に町民・農民に対する教導者として位置づけられたのである。

庶民の子は檀那寺の寺子である。寺の本堂に寺子を集めて読み書きを教えたのが寺子屋の始まりである。ここに庶民の学習の場が出来た。

学ぶことの必要性

江戸幕府は開府以来、通貨制度・全国の交通網の整備に注力し広域経済圏が確立した。貨幣経済が定着し商取引が活性化する。現金取引なら領収証、掛け売りなら売掛帳、貸し借りには証文をやりとりし、手形も流通した。こうなると「読み書きそろばん」が出来ないことには社会生活が成り立たない。丁稚奉公や女中奉公でも「読み書きそろばん」は最低不可欠の採用条件となり、読み書きできるかどうかは死活問題となった。

そのため親は食べる物を節約してでも「学校」に通わせた。その学校は江戸の初期には「寺にある寺子屋」であったが、やがて浪人が自宅に開く寺子屋に通わせるようになる。

寺子屋自体が私塾であるが、当時「私塾」と呼ばれたのは「読み書きそろばん」を超えた上級学校であった。私塾は比較的余裕のある家の子弟を集めたが経営的には厳しかった。

近江の中江藤樹は向学心に燃える門弟のため琵琶湖西岸で講学を行ったが、その生計は生徒の月謝ではとうていまかなえず、米や酒の小商いや金融業によって生計を補った。

伊勢松坂で私塾鈴の屋を営んだ国学の本居宣長も、小児科医の傍ら夜間に講座を開いた。このように私塾は師匠の教育への情熱によって運営されていた。

私塾は漢学・国学の他に蘭学・医学・算学など多様性をもっていた。武士の藩校(藩が開設した武士の学校)が封建補強の硬直化したものであったのに対し、「私塾」は経営的には大変でも学習意欲の盛んな子弟に支えられた充実した教育機関であった。

萩の吉田松陰の松下村塾は藩校に上れない下級武士の子弟を中心に、わずか三年開講しただけであったが門弟が維新の大原動力(松下村塾では伊藤博文、高杉晋作、山県有朋などを輩出している)になっている。

寺子屋の開設は累計15,000教室以上にも及んだ

寺子屋は通常一人の師匠が自宅を教場にして私的に経営した。師匠が何らかの原因で経営をやめれば入門帳の類も残らない。従って江戸にいくつの寺子屋があったか正確な統計はなく、幕末には八百八町に八百以上の寺子屋があったとされるが定かではない。

しかし寺子屋開設の資料を集めると江戸初期から明治初期にかけての開設数の累計は15,506教室に及ぶ。

大衆への文字の普及により知識の取得意欲が発生し、それが江戸の出版・印刷業者の繁栄につながった(本を購入できる庶民は少なく、多くは市中を移動・訪問する貸本屋を利用した。文化年間(1804-1818)の江戸の貸本屋の数は656軒あった。地方では宿駅の有力な家に置き本をしてそこで有料で貸し出した)。京都では書肆(出版社兼印刷所兼書店)の二階に寺子屋が設けられた。

教育の普及が自らの商売の繁盛につながることを当時の書肆の経営者達は理解していたのである。

十八世紀後半になると農村にまで寺子屋教育が浸透した。読み書きそろばんをマスターした農民は村役人の不正を見破れるようになり村方騒動が頻発した。

貨幣経済が発達するにつれ徴収米の換金だけに頼る武家は時代とともに困窮し、経済力を増した商人の力が強まった。

農民・町民の教育水準が上がるにつれ、教養という唯一の武士の優位性も無くなり、その権威は墜ちる一方であった。

才能をもてあました下級武士が維新の原動力となった。

武家の子弟は藩校で学問を修めても活躍の場は限られていた。

数が限られている役職は世襲や賄賂によって能力とは関係なく埋まった。無役でも長男は家督を継げば俸禄が得られるが、次男・三男ともなると家督も継げず当然収入も無く、まさに「仕事も給料もない」悲惨な状況であった。それを解決する唯一の望みは、跡取りの無い家の養子になることくらいである。

武士全体が困窮していく中で、多くを占める下層武士の生活はまさに困窮を極めた。外様藩ではなおさらそうであった。

開花することのない才能を持った外様の下層武士の次男、三男にとって幕末の混乱はまさに生涯最大のビッグチャンスであり、長年鬱積した巨大なエネルギーを一気に放出した。まさに爆発させた。それが明治維新である。

驚異の経済発展は名字の強制から

明治三(1870)年「平民名字差許候事」という太政官布告が発令され平民に名字をなのることを認めた。これは国民皆兵制導入による「徴兵」の為であった。徴兵するためには個人を特定できなければならない。何村の何兵衛だけでは強制徴用できない。この時からそれまで寺に預けていた戸籍の管理業務が国の手に渡る。

しかし国民の8割を占める農民にとっては姓が無くても何も困らない。地域の中で通用すれば事足りたからである。

しかしそれでは明治政府は兵籍を作ることはできない。そこで明治八(1875)年に「必ず苗字相申す可し、先祖の苗字不明の向きは新たに苗字を設ける」という布告を発令し苗字を強制した。

この農民も町人も武士も分け隔て無く苗字を持ち兵になると言う「徴兵制度」により身分の差が無くなった。整備された戸籍により国民皆学も実現した。明治政府は寺子屋を小学校にして全国民の子弟に無料で義務教育を行った。

明治の驚異の経済発展はここから始まったのである。

蛇足

ちなみに、ユネスコの統計上での「識字率」(literacy rate)は、総成人人口(15歳以上)に対する推定成人識字者数の割合を百分率で表したもの。

幕末期に来日した西欧人達が日本の識字率の高さに驚いたことは複数の文献で伝えられている。幕末期(1854-61年頃)の江戸の識字率は男子が79%、女子が21%で、武士は殆ど100%読め、農村の僻地でも20%は読めたという。これは当時の世界の中では群を抜いていた。明治になり福沢諭吉は「通俗国権論」で幕末の日本の識字率は世界一であると誇っている。

明治15年の文部省年報では(滋賀縣での)男子識字率は91%女子は50%、全体では70%となっている。(2000年の日本の識字率は99.8%)

今日の先進国の識字率は95%以上となっているが、アジアの中には低い国々が少なくない。低開発国が発展するためには識字率の向上が必要であり、ユネスコは識字率の向上に取り組んでいる。

アジアの低開発国の識字率(90%以下の国々 2000年)
 アフガン   36.3%
 バングラ   40.8%
 ネパール   41.4%
 インド    41.4%
 パキスタン  43.3%
 イラク    58.0%
 サウジ    77.0%
 ミャンマー  84.7%
 中国     85.0%
 インドネシア 87.0%

(塩原 2004.10.12初出)

【参考資料】
「山川 日本史総合図録」山川出版社 税別657円
「世界各国要覧2002」二宮書店 税別571円
「日本の歴史83 江戸の学問 朝日新聞社 税込500円
世間胸算用 井原西鶴著 暉峻康隆訳・注 小学館ライブラリー 税込840円
江戸の色ごと仕置帳 丹野顯 集英社新書 税別680円
鳩ヶ谷歴史往来 平野清 文芸社 税別1200円
さいたま市立博物館資料
世界各国要覧2002 二宮書店 税別571円
日本の歴史83 江戸の学問 朝日新聞社 税込500円
江戸浮世絵を読む 小林忠 ちくま新書 税別680円
アジア太平洋識字データベース ユネスコアジア太平洋センター http://www.accu.or.jp/shikiji/index.htm
和光大学表現学部文学科ゼミのWebサイトより http://www.wako.ac.jp/icc/icceduweb/fukasawa_01/fukasawa_01.htm
専修大学ホームページ 日本経済史・2「近世・江戸期の経済発展」 http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~the0589/kougi0402.htm
『文部省年報第10』明治15年文部省編 宣文堂書店 1966復刻 http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/34_mdoku.html

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